デモクラシー速報

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タグ:歴史

1: 民主主義者 2024/08/15(木) 13:46:49.67 ID:nkN/l0uA9
特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」

45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」。憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。
 良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」
 1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。
 戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。
 帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします」
 1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。

未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」

良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。
 「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。
 特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。
 「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」

全文はソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/b08e5dde57ae50e60e75be686cc26ca1a8d66a14

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1: 民主主義者 2023/08/27(日) 20:09:39.23 ID:bWXK+uV69
事件現場となった派出所があった場所は路線バスの折り返しスペースとして使われている=埼玉県熊谷市妻沼で8月18日、隈元浩彦撮影
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 関東大震災(1923年9月1日)下で繰り広げられた朝鮮人虐殺。千葉県福田村(現在の野田市)では、朝鮮人と間違えられた9人の日本人が惨殺された。これを題材にした森達也監督の新作映画「福田村事件」(9月1日公開)が話題である。だが、県内で起きた同じような事件は忘れられている。舞台は同じ利根川沿いの小さな町だ。【隈元浩彦】

 ◇埼玉・妻沼でも惨劇、デマと群集心理

 福田村事件は震災5日後の23年9月6日に発生。香川県から薬の行商に訪れていた男女15人が、「朝鮮人が襲来してくる」というデマを信じた村の自警団らに襲われた。幼児、妊婦を含む9人(胎児を含めれば10人)が殺害され、遺体は利根川に投げ捨てられた。聞き慣れない讃岐弁が朝鮮人と誤認された一因と言われる。背景には朝鮮人差別のほかにも、被差別部落出身の行商人ら15人への職業差別、異集団を排撃する群集心理があったと指摘される。

 事件前日の5日夜、直線距離で利根川の約50キロ上流の妻沼町(現在の埼玉県熊谷市妻沼)で同じような惨劇が起きた。東京日日新聞(現在の毎日新聞)10月18日付紙面は「派出所の前で/青年を惨殺す/万歳唱へたとて/埼玉自警団の暴行」という見出しの記事を掲載。秋田県出身の21歳の青年が妻沼の派出所前で自警団によって殺害され、遺体は利根川に捨てられた、と報じた。

 虐殺事件の報道が解禁(10月20日)される前で、「朝鮮人」の言葉はない。ただ自警団が青年に「アイウエオ五十音などを盛んに暗唱」させたとあり、朝鮮人と誤認されたことを示唆している。

 しかし、顚末(てんまつ)を記した「妻沼町誌」(77年)によると、単なる誤認ではなかった。当時、妻沼にもデマが浸透していた。町内を歩く見慣れない青年を怪しみ、自警団が尋問すると、「東北弁のこととて言葉が思うように通じない。『朝鮮人だ!』血気にはやる若者が竹槍で右腹を一突」きした。青年は「日本人だ」と必死に抵抗し、派出所に連行された。警察官が調べたところ、日本人であることが分かった。青年がうれしさのあまり「万歳!」と叫ぶと、生意気だということで、槍や日本刀で惨殺された。14人が検挙されたと記す。

 日本人と承知の上で手にかけてしまったところに、一度暴走するとなかなか止まらない群集心理の恐ろしさを物語っているようだ。

 ◇地元に事件を知る人は見つからず

 事件の記憶は妻沼の地でどう伝わっているのか。800年以上の歴史を誇る、地元の聖天山歓喜院に鈴木英全院主(81)を訪ねた。「いや、聞いたことはないですね」と首を振った。事件のあらましを伝えると、「心が痛みます。そういう時代が二度とあってはならない。そう思います」と顔を曇らせた。

 鈴木院主によると、戦後しばらく派出所は、歓喜院の東約250メートルの場所にあったという。「家族が住める官舎が備わり、幹部派出所と呼んでいました。留置所もあったようです」。現在、バスの折り返しスペースとして使われている。周辺は商店が点在する。道行く数人に事件について尋ねたが、一様に首をかしげるばかりだった。

 「妻沼町誌」によると、青年の遺体は「旬日を経て下流で発見された」という。だが、その遺体がどう扱われたのか、100年後の今となっては、分かるすべはない。

8/24(木) 13:40配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/c8e2e9e81953d4c9c017b3a8b04b09bc3d91b6e0

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1: 民主主義者 2023/08/15(火) 12:28:36.49 ID:2Mk7DDjn9
戦後78年の終戦の日の15日、天皇皇后両陛下は、日本武道館で行われた全国戦没者追悼式に出席されました。天皇陛下のお言葉全文です。

【天皇陛下】

本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、 全国戦没者追悼式に臨み、 さきの大戦において、 かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、 今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、 誠に感慨深いものがあります。

これからも、私たち皆で心を合わせ、 将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。

ここに、 戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、 過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

日テレNEWS 2023.08.15 12:04
https://www.nkt-tv.co.jp/pc-news/news91p8hgwf22u6kopwx4.html

※他ソース
【速報】天皇陛下、お言葉で今年も「深い反省」
https://www.47news.jp/9725481.html
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1: 民主主義者 2023/08/11(金) 21:51:33.24 ID:bxKbrSQS9
南京に入城する日本軍=1937年12月撮影
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 1937年に始まった日中戦争で中国大陸に侵攻した旧日本軍は、現地住民の食料などを奪う行為を繰り返していた。大本営直属の経理部門「野戦経理長官部」は、39年3月に「支那事変ノ経験ニ基ク経理勤務ノ参考(第二集)」という冊子を発行した。そこには事実上の「略奪マニュアル」と言える内容があり、民衆が隠した物資をどのように発見するかの「コツ」が記されていた。

 冊子の一項目「住民ノ物資隠匿法ト之ガ利用法」には、次のような内容が書かれている。「前方にレンガの壁を設け、その後方の家屋や倉庫などの全体を覆い隠していることがある。この場合には壁を破壊する必要がある」。また「銀行の倉庫には抵当物として食料その他が発見されることがある」と「銀行強盗」を促すような内容もある。

 当時は戦地の兵士たちに日本国内から十分な物資が補給されず、食料は現地で手に入れる「現地自活」の方針が取られていた。資料からは、末端の兵士の判断だけではなく、軍として略奪行為を「指南」していた様子が浮かぶ。

 京都市出身の陸軍歩兵・小林太郎氏(故人)は、37年から約2年間にわたり上海戦、南京攻略戦、徐州作戦などに従軍。略奪や殺害を繰り返した日常を淡々と日記に残した。「行軍中いもを畠(畑)から掘つて来て、焼いも」(37年9月25日)、「行く行くの部落(集落)でニハトリ(ニワトリ)を徴発」(38年3月28日)といった行動を記している。

 さらに、敵のトーチカ(コンクリート製の防御陣地)を攻撃した際、そこで炊事をしていた民間人について「土民は銃殺。女は逃がす」(37年11月20日)などと記載。敗残兵を見つけたので殺した、という記述も多い。

 小林氏は39年に満期除隊し、戦後は高校の数学教師を務めた。次女の能崎(のざき)嘉子さん(77)は「酒も一滴も飲まず、まじめだけが取りえのような人だった」と振り返る。高校生の時、自宅の仏壇の上にあった日記を初めて読み、知らない父の姿に驚いたという。

 小林氏は晩年、精神疾患を発症し、気分の浮き沈みが激しかった。能崎さんは戦争の影響を感じたという。(以下ソース)

8/11(金) 0:59配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b843f42d006e599938fee4c4497825724f55c555

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1: 民主主義者 2021/12/09(木) 14:13:50.61 ID:enKdA2wJ9
1941年4月、つまり太平洋戦争開戦の8ヵ月前、当時の帝国政府は「総力戦研究所」を立ち上げ、
30代前半のトップエリートが集められた。大蔵省や商工省といった省庁のキャリア官僚、陸軍省の大尉、海軍省の少佐、
さらには日本製鐵、日本郵船、日銀、同盟通信(のちの共同通信)の記者まで総勢35人。

彼らは、もし日本がアメリカと戦争をしたら、日本は勝てるのか、そのシミュレーションをした。

大蔵官僚は大蔵大臣、日銀出身者は日銀総裁、記者は情報局総裁というように、それぞれが役職に就いて「模擬内閣」をつくった。
出身の省庁や会社から、できうる限りの資料、データを持ち寄って検討していった。
侃々諤々の議論を経て出た結論は「緒戦は優勢ながら、徐々に米国との産業力、物量の差が顕在化し、
やがてソ連が参戦して、開戦から3~4年で日本が敗れる」というものだった。

■葬り去られたシミュレーション
日米戦争継続のポイントは、「インドネシアの石油」だった。石油がほとんど出ない日本が戦艦などを動かすためには、
ここを押さえて、かつ燃料を本国まで運んでこられることが絶対条件だった。
研究所は、「石油を運ぶ商船隊が、ほどなく米軍の潜水艦の攻撃を受けるようになり、補給路は断たれる」とシミュレートした。

実際、2年後には輸送船が壊滅的な打撃を被り、翌年には全滅し、研究所のシミュレーションどおりとなった。

知性とデータを駆使した「日本必敗」のシミュレーションだったが、この結論は時の内閣に葬り去られた。

8月下旬、当時の近衛文麿内閣にこの結論が報告されるものの、陸軍大臣だった東條英機は
「君たちの言うことも分かるが、“日露”がそうだったように、戦争はやってみないと分からない」と発言する。
結局、総力戦研究所もあえなく解散する。

(全文はソースにて)
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/90115?imp=0
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